何でもない日だけど、それでもいい

欠損男子の思うところ

写真素材のピクスタ

通信簿という曖昧な通知

なぜ通信簿というものが生まれたんだろう。
 
年間のテストの成績だけのランク付けだったら、テストの点数を記録して集計すればいいだけになる。
あとは通信欄に何か一言二言書くだけ。
 
この成績からのランク付けは、見る前にだいたい予想がつく。
問題は通信欄。ここに書かれる内容で印象がガラッと変わることもあるだろう。
 
 
さて、自分が担任となってそれを書くという立場にあったらどうするだろうか。
マニュアルとかあるのだろうか。
 
テストの成績の方はエクセルなんかで集計しておくとして、問題はやっぱり通信欄。
何も書かなくてもいいような気がするけど、保護者からすると学校生活はどんな感じで過ごしてるのか一番気になるところだろうから、一言は書いてあげたいかな。という気持ちになる。
 
多分、自分(担任の先生)やクラスメイトに対する態度を振り返ってみる。
でもそれらは全て自分の目の前に出てきたものだけで、もし副担任というものがいても、ことあるごとに報告されたところで、実際に目にしたものではないとなかなかそれが文字になることはないと思う。
写真とかを見て振り返るなんて事もしないだろう。
それこそ撮ってもないだろうし、そこまでしなきゃいけないか?な気持ちになる。
 
そしてこうやって記憶から出てきた、ポジティブなものからネガティブなものまで色々な思い出と感情を、あの小さな通信欄にぶつけるのだ。
  
 
てなことを考えてみると、通信簿ってあんまり役に立たないことだと思ってしまう。
テストという絶対的評価と、他の生徒や過去の生徒との相対的評価、そして自分の思い入れ評価。
 
でもまあ実際にも、ベテラン教師から新任教師、同性だったり異性だったりでも印象が変わることは当たり前。
その担任と親密な人付き合いをしてでもいなければ、なぜこんなことを書いたのかなんてわかるわけがない。
 
結局は、通信簿なんてものはそんなに気にしなくても、普段の子どもをよく見ていればいいんじゃないのかという気にもなるんだよね。